2011年1月5日水曜日

11.日本文化の源流・日本の詩人の系譜・若山牧水-1

日本の詩人の系譜・若山牧水・みなかみ紀行より 草鞋の話

私は、若山牧水が好きだ。彼はわけを愛し、旅をこよなく愛した。私は、以前万葉の詩人・山上憶良を中国の詩聖と呼ばれた杜甫と対比して、話した。牧水は酒仙と呼ばれた李白に通じるものがある。酒を愛し、旅を愛した点である。詩風は異なっている。李白が天衣無縫ともいえる、創造性豊かなのに対し、牧水は誠実さ、優しさを感じさせる詩風だと、思っている。ここに
諸君に紹介するのは、彼の歌ではなく紀行文である。

              草 鞋 の 話

私は草鞋を愛する、あの、枯れた藁で、柔らかにまた巧みに、作られた草鞋を。
あの草鞋を程よく両足に穿きしめて大地の上に立つと、急に五体の締まるのを感ずる。身体の重みをしっかりと地の上に感じ、其処から発した筋肉の動きがまた実に快く四肢五体に伝わっていくのを覚える。
呼吸は安らかに、やがて手足は順序良く動き出す。そして自分の身体のために動かされた四辺の空気が、いかにも心地よく自分の身体に触れてくる。

机上の仕事に疲れた時、世間のいざこざの煩わしさに耐え切れなくなったとき、私はよく用もないのに草鞋を穿いてみる。
二三度土を踏みしめると、急に新しい血が身体に湧いてきて、其の儘玄関を出かけていく。
そうするまではよそに出かけていくにも億劫なほど、疲れ果てていた時なのである。
そして二里なり三里なりの道をせっせと歩いて来ると、もう玄関口から子供の名を呼び立てるほど元気になっているのが常だ。
身体をこごめてよく足に合う様に紐の具合を考えながら結ぶときの新しい草鞋の味も忘れられない。足袋を通してしっくりと足の甲を締め付けるあの気持ち。立ち上がった時、じんなりと土から受け取る時のあの感じ。

同時に、よく自分の足に慣れてきた、穿いているのかいないのか解らないほどになったときの、古びた草鞋も有難い。実を言うと、そうなった時が最も足を痛めず、身体を疲れさせない時なのである。いい草鞋だ、捨てるのが惜しい、と思うと、二日も三日も、時とすると四五日かけて一足の草鞋を穿こうとする。もうそうなると良くできた草鞋でも、どこに破れが出てくるのだ。




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