万 葉 集
山 上 憶 良 -1
大宝元年(701)第七次遣唐使小録となる。時に無位となる。704年帰国、721年朝廷を退官し後東宮(皇太子)に仕えた。天平5年に没したと思われる。七十四歳。天平朝の
亡命渡来人である侍医の子と考えられている。
小生が好きな憶良の二首の歌を紹介する。
銀も金も玉も何せむに、勝れる宝、子に及かめやも
これは、反歌である。反歌は長歌(長い歌で、本来の歌である。この長歌を短く要約した歌の形式が、短歌である。この形式が平安時代に古今和歌集にまとめられ、現代に受け継がれている。
歌の意味を解説することは、やぼったいのだが、若い世代のためにあえて野暮を覚悟に解説するならば、
銀(この時代銀が通貨として、流通しており、金が通過をしての主役になるのは、秀吉の時代、佐渡金山の開発が進み大量な金が供給されて以後で在る、それが江戸幕府に受け継がれ小判が流通貨幣として定着した。それでも大阪以西では、銀本位制、江戸を中心とした関東以東では、金本位制の2貨幣制度であった。このため、銀相場と金相場があり、そのために両替商が生まれた。)
銀も金も玉も何ほどの価値が在るのか、財宝に勝る宝は、わが子に及ぶものはない!
この時代、医術のレベルは低く、幼児の死亡率は高かった。更に朝廷に仕えるものは、男子相続であり、子がないことは家の断絶につながり先祖からの受け継いだ、一族の没落に
つながった。一族の長の最大の勤めは、子に受け継がせることであった。しかし若者よ、速断してはいけません、これは時代背景を述べたもので、この歌にはまぎれもなく子供を思う、親父の心情が唄われているのです。貴女の親父さんも、お袋さんんも君達が嬰児(みどりご)のとき、風邪お引きピーヒート泣いて、鼻水をたらしているとき、間違えなくこう思ったのです。自分ひとりの力で一人前になったと思っているうちは、未だ”がき”なのです。
上記歌に句点を打ったが、本来来これはすべきことではないが、若い世代が理解しやすいようにあえて句点を打ったのです。
読み方は、銀も金もと読んではいけません。ルビどおり
しろがねもこがねもたまもなににせむ、まされるたから、こにしかめやも
と音読してください。詩、歌には韻という音の響きを作者は考えて作っているのです。
これでおわかりように、古代の人にも深い教養が在るのです。勿論彼は、朝廷に仕えるエリートであり、彼の素養の基盤は漢籍(論語等)。漢詩です。小生は、漢詩が好きで、漢詩百人一首という作品群を、YouTubeに、Blog、公式サイトに発表しています、私は、憶良が漢詩の杜甫(中国・唐の時代詩聖と呼ばれた李白と共に、漢詩の世界を代表する詩人)と日本の憶良が、その誠実さ、詩の美しさで日本の詩聖と呼ばれて良いと考えています。
若い諸君に、小生と共に、日本民族の文化の源泉をなす、日本の詩の系譜と、漢詩の系譜を辿ることにしましょう。
Pcを扱い、InterNetを駆使し、iPhonを使い、英語を話せても、海外の人には尊敬されません。自国の文化に対する理解と共用が必要なのです。
次回には、憶良の貧窮問題歌の講義をしましょう。
この原稿は、久保・物理学・哲学研究所公式ブログProf. Kubo Official Blog
- Wikipedia
に掲載します。
2010・12・18 Prof. Kubo
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