自然科学者の視点から見たインド哲学
私は今、インド哲学・思想の研究・解明に努力を払っている。研究の合間に、ふと何故
このようにインド哲学に惹かれるのだろうかと、自分に問いかけた。
インド哲学、宗教の思想では、宇宙には一つの根本原理が存在すると考えられている。
この根本原理には、ブラフマン、シヴァ、シャクティ、ヴィシュヌ、クリシュナなど
各宗派ごとに異なる神の名が与えられているが、根本的には同一の原理=ブラフマン=梵
が人間に対しその状況に応じ、様々な形態を示すと考えられている。
これに対し人間の自己の中心には“真の我=アートマン”が存在し、アートマンは
ブラフマンと同一・等価であり、梵我の一致、即ち梵我一如であるとされている。
日常の生活における“我”に対し、自己の内なる“真の我=アートマン”に達するために、
ヨーガによる瞑想に入り、宇宙の真理の音であるOm=オームをマントラとして唱え、心を落ち着かせ真の我との遭遇を促すとされている。
これに対し、私が学んできた物理学において、20世紀における物理学上の2大革命として、相対性理論(Relativity)と量子力学(Quantum Mechanics)の開発・発展がある。
1905年アインシュタインにより特殊相対性理論が発表された。さらに1915~1916年に
かけ一般相対性理論が発表され、これにより宇宙の根本原理が解明されるかと期待された。
然し、アインシュタインが後半生30年近く、重力と電磁気力を統合する“統一場理論”の構築に心血を注いだが、彼の死により未完に終わった。この巨視的世界の、他方では、
量子力学(Quantum Mechanics)が、古典力学で説明しきれない、電子・原子核などの
微視的現象を説明するために開発された。さらに、現在においては、原子核内部の素粒子物理学に発展し、素粒子間に働く重力や電磁力以外の基本相互作用が認められている。
さらに量子力学と相対性理論とを組み合わせた、“統一理論”の探求が行われているが、
いまだ完成されてはいない。
この物理学に於ける宇宙の時間・空間・質量・エネルギーの関係、即ち宇宙の根本原理を解き明かそうとする試みと、インド哲学における宇宙の根本原理ブラフマンを探求する
試み、他方、微視的現象を解明しようとする量子力学・素粒子物理学の試みは、インド哲学に於ける自己の内なる“真我=ア―トマン”を求める試みと、相似していると思う。
インド哲学において、梵我一如を究極の目標としているに対し、現在物理学における
究極の目標として巨視的世界を扱う相対性理論と、微視的世界を扱う量子力学とを統合した“統一理論”の探求がなされている。
更に。哲学的思索の最高峰といわれているリグ・ヴェーダのナーサディーヤ賛歌に於いて、
宇宙の創造に関して、“宇宙の最初においては暗黒に覆われていた。宇宙は空虚に覆われ、発現しつつあったかの唯一なるものは、熱の威力によって出生した”と歌われている。
現代の宇宙物理学、天文学において、宇宙の原初は超高温、超高密度の粒子の混在する
カオスの世界だった。それが内在するエネルギーにより爆発的に膨張し、現在の宇宙が
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形成されたとしている。
インド哲学の研究を進めていくにつれ、私が学んできた物理学との相似性が、自分を
インド哲学に強く引き付けていると思うようになってきた。考えてみれば、理論物理学と哲学・神学・宗教学は同じ目標、宇宙の根本原理を求める学問領域だと思える。
これが私をインド哲学に強く引き付ける理由であり、インド哲学・思想の研究に対する
私の立脚点であり、視点である。
仏教・ヒンズー教・キリスト教・ギリシャ哲学・ユダヤ哲学を哲学体系として研究する。
もし人に、私の信仰を問われたとしたら、自然科学の研究に基づく、自然哲学が私の信仰対象だといえるであろう。
タゴールの著作集に彼の書いた、宇宙論があるのを見出し読んだ。詩人・教育者・思想家である彼の著作に宇宙論があるとは、以外だったが嬉しくなった。
いま、私の研究室のサイドデスクは、インド民族の古代から伝わる叙事詩マハーバラタ・バガヴァッド・ギータの系統の著作・資料
タゴールの詩と思想・論文集、
インド独立時、ネルー内閣の初代法務大臣、憲法草案起草委員、不可触民制度の打破運動の指導者、仏教復興運動の指導者Dr.B.R.Ambedkarの著書という3つの系統の書籍・資料に占領されている。
物理・科学領域にに戻るのはしばらく先の事になりそうである。
2011/07/28 Tokyo Prof.Kubo
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